秋の日誌

Autumn Journal

精神の祝祭

2018年5月21日(月) 晴れ

A to Z Cafe」の窓から眺める表参道は、六本木の高層ビルを遠景とした、意外と見晴らしのいいパノラマだ。そんな風景を横目に今日も「ミシェル 城館の人」の続きを読む。「第三部 精神の祝祭」。大団円まで残り数章を残すまでとなった。三月の終わり頃から、時間の隙間を縫ってこの浩瀚な書物をコツコツ読んできたわけだが、堀田善衞がこの仕事にかけた膨大な時間にくらべれば二カ月間というのはほとんど無きに等しい。

ともあれ、時は十六世紀末。宗教戦争はいまだ収まらず、フランスの王権は無力化、パリは無政府状態という極めて危険な状態にあった。王国は三つに分割されていた。名ばかりの王権支配の王国、パリに本拠を置くギュイーズ公一党のカトリック同盟の支配地区、そして、ナヴァール公のプロテスタント支配地区である。田舎で隠棲していたはずのミシェル本人の意志とは裏腹に、彼はまだ、この政治的争乱から完全に抜け出すことはできなかった。その頃、ミシェルはモンテーニュ村の城館で、四年間にわたる市長職の疲れを癒やしていたのだった。

折しもヨーロッパは大きな変革の時を迎えようとしていた。1588年8月はじめ、世界最強と謳われたスペイン帝国の無敵艦隊が、サー・フランシス・ドレイク提督率いるイングランド王国の艦隊によって壊滅させられた。この歴史的な事件は“太陽の沈まぬ国”スペイン帝国の終焉の先触れとなるものだった。スペイン帝国の没落は同盟国であるフランス王国の、特にカトリック同盟の政治的影響力の衰退をも意味していた。ネーデルラント連邦共和国、イングランド王国の時代がすぐそこまで来ていたのだ。

DrakeKnightedTavistockMonument.jpg
By Lobsterthermidor at en.wikipedia - Own work Transferred from en.wikipedia, CC0, Link

時代が激しく揺れ動く中、「城館の人」ミシェルはその生涯を閉じた。1592年9月13日。享年、五十九歳と七カ月だった。

「こういう人をこそ、世界人、あるいは世界市民と呼ぶのであろう」

堀田善衞は最終章の最後の文章でミシェルをこのように評する。“こういう人”とはどういう人であったのか?

「ヨーロッパのほとんどすべての人々が、カトリックかプロテスタントかということでかたみに殺戮し合っていたときに、目を大きくひらいて外にも向かうことの出来る、自由闊達な精神がモンテーニュの城館の中にいた。しかも、この外に向けられた目もまた内省の一部であった」

そんな人の“精神の祝祭”がまさに「Les Essais(エセー)」と呼ばれる書物なのであった。合掌。

サン・バルテルミーの大虐殺

2018年4月17日(火) 雨

骨董通りに雨が降る。月の半ばを過ぎたというのに、コートが必要なくらい寒い。傘をさして、Pastanticoへ。「ミシェル 城館の人」(堀田善衛)の続きを読む。第二部のタイトルは「自然 理性 運命」。

舞台は1572年8月のパリである。堀田善衛はミシェル・エーケム・ド・モンテーニュにただの一言も言及することなく、王国の母后カトリーヌ・ド・メディシスの策謀を語り、シャルル九世の発狂の過程を綴り、そして、歴史の渦に呑み込まれてゆく人々の悲劇的な運命を淡々と記述していく。それらの文章は誰もが知るあの恐るべき殺戮の季節の到来を予感させるに十分なものだ。

8月24日、日曜日はサン・バルテルミーの祝日だった。

王宮の廻廊は地獄であった。床にも壁にもドアーにも、鮮血はありとある血模様を描き、死骸、傷を負って逃げまどう者、喉を掻き切られた者……。いずれも刀槍によるものであったから、全身の血液が全部流れ出るまで、流血は止まなかった。

Francois Dubois 001.jpg
By François Dubois - [1], パブリック・ドメイン, Link

パリで勃発したカソリックとプロテスタントの殺し合いは29日まで続いた。狂気の連鎖は地方にも飛び火する。リヨンでは約千人が死んだ。モーでは200人、オルレアンでは500人、トゥルーズでは200人、ボルドオでは344人が殺された。最終的な犠牲者数は数千人とも数万人とも推定される。まさに虐殺の季節であった。

事件の描写が一段落したところで、堀田善衛はようやくミシェルに触れる。

サン・バルテルミーの大虐殺について、ミシェルは一言半句も書きはしなかった。

そう。ミシェルは王国を震撼させたこの大事件について、いかなる文章も残していない。そんなミシェルの思惑を堀田善衛はできる限り理解しようと務める。ミシェルは敬虔なカソリックである。若くして公職を辞し、ボルドオの城館に隠棲していたとはいえ、依然として王国の中枢に多くの知己を持つ帯剣貴族でもあった。カトリーヌ・ド・メディシスが企てた陰謀と、想像を絶するその凄まじい結果に正面から異を唱えることはできなかったであろう。ミシェルはまた、自身の書き物の中にキリスト教論考のようなものもほとんど残していなかった。

要するに、古代ギリシャ、古代ローマの文学と哲学が圧倒的な深さと重さをもって、彼の内面に存していたのである。

十六世紀のヨーロッパにおいて、政治と宗教は権力装置という意味で、同じものであった。思索家でありながら、実際家でもあったミシェルにとって政治と宗教は共に、ある一定の距離を置いて付き合うべき(けっして突き放すことはできない)、飼い慣らし難い野獣のような存在であったと考えられる。ただ、それ以前の問題として、堀田善衞が想像するように、ミシェルの視座はすでに同時代の政治・宗教的な闘争が生み出す状況の観察を遥かに超えて、人間の振る舞いを広く俯瞰し、深く分析するものであった。カソリックの世界観を信奉してはいたが、彼のような立場にある人物としてはおそらくかなり稀なことに、異教的な価値観によって、キリスト教世界で生じる深刻な愚行を眺めることができたのであった。

革命の年

2018年4月3日(火) 晴れ

骨董通りにあるIDOLのシャンデリアは優しく柔らかな光で空間を満たす。しかし、わたしが今いる十六世紀のフランスは相当に血腥く、昏い。他国(ブラバント公国)の画家ではあるが、ミシェル・ド・モンテーニュと同時代のヨーロッパを生きたピーテル・ブリューゲルの不吉な絵画「死の勝利」の薄気味悪い情景が脳裏をよぎる。

Thetriumphofdeath 3051x2161.jpg
By ピーテル・ブリューゲル - Museo del Prado, パブリック・ドメイン, Link

「1560年は嵐のような年であった」と堀田善衞は「ミシェル 城館の人」で書く。プロテスタント側の貴族や軍人、商人たちが画策したギュイーズ公暗殺の謀議は完全に失敗した。城門や(アンボアーズの)町中には絞首刑に処せられたプロテスタントたちの屍を吊るした柱がまるで「林のように立てられた」。フランスの宗教戦争はその規模が拡大するに従って、敵対する政治勢力間の権力闘争に発展する。さらには、当然のことだが、経済問題にまで飛び火する。王国の財政はほとんど破綻状態にあった。スペインを経由してアメリカ大陸から流れ込む金銀が貨幣価値の大暴落を引き起こしていたのだ。皮肉なことである。“新大陸で発見された宝物”が旧弊な貨幣体制や経済構造をその根本から破壊する引き金(のひとつ)となっていた。財政破綻の対処は王国にとっては喫緊の課題である。教会および僧院は、プロテスタント諸都市の要求に押し切られる形で、所有する莫大な財産の売却を余儀なくされた。堀田善衞はカソリックを追い込んだプロテスタントの動きをフランス大革命における第三身分のそれと同等レベルであると考える。フランスにとって1560年という年はまさに革命の年であった。

全世界理解のための原理

2018年3月30日(金) 晴れ

陽射しは眩しいが、まだ肌寒い陽気である。YPSYLONで遅い昼食をとりながら「ミシェル 城館の人」(堀田善衞)の続きを読む。

1551年、ギュイエンヌ学院を卒業したミシェルは、ギリシャ語とギリシャ哲学を学ぶためにパリに出た。カソリックとプロテスタントが宗教的な内戦を繰り広げていた時代である。ギリシャ語の修得は「聖書解釈の再検討を呼ぶ誘い水になりかねないという理由」で教会筋からは危険視されていた。それでもあえて、父ピエールはミシェルにギリシャ語とギリシャ哲学を修めさせようとした。これはミシェルをソルボンヌの神学部とは別の教育系統に組み入れることを意味した。当時は、後のコレージュ・ド・フランスである王立教授団がフランソワ一世の保護のもとにその活動を開始した時期である。ミシェルはそこで、ギリシャ・ローマの文献に基づく綜合的な人文学の講義を受けた。

Collegeroial.jpg
Par Claude Chastillon — Tiré de la Topographie francoise ou representations de plusieurs villes, bourgs, chasteaux, plans, forteresses, vestiges d'antiquité, maisons modernes et autres du royaume de France, Boisseau, Paris, 1655, Domaine public, Lien

王立教授団でミシェルはアドリアヌス・トゥルネブスという教授と出会う。

私(ミシェル)はしばしば、わざと彼(トゥルネブス)の生活とはかけ離れた話題に彼を引き入れてみたが、それに対する彼の観察と理解と判断は明快でかつ早く、健全であったので、いままでたとえば戦争や政治のことばかりを専門にしていた人ではないか、と思われるほどだった。

このように書くミシェルの「エセー」の一部分に堀田善衞は注目する。問題は「戦争や政治」である。

〈戦争や政治〉もまた人文学の重要な教養課程でなければならないのである。教会の教理やドグマが全世界理解のための原理であった時代は、すでに完全に過ぎ去っている。

「ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)」の発起人のひとりでもあった堀田善衞にとって、教養とは、そして人文学とは、分別や判断力を養うための必須の基盤であり、それは現実の状況と密接な関わりを持たなくてはいけないものだった。アドリアヌス・トゥルネブスなる人物は、十六世紀のヨーロッパにおける複雑な政治外交に通じ、宗教戦争の趨勢を見極める冷徹な観察眼を持った人物であったようだ。同時に、ギリシャ、ローマ時代の古典に関する深い造詣の持ち主でもあった。

教養、それすなわち、「全世界理解のための原理を解き明かす」智慧の謂いである。堀田善衞は王立教授団に教育機関としての理想を見ていたのかもしれない。

火刑の時代

2018年3月28日(水) 晴れ

焼きたての肉料理を頭に思い浮かべながら骨董通り沿いのYPSILONへ行ったのだが、生憎休みだったので、少しだけ足を伸ばしてIDOLへ行った。幅広の階段を地下に降りていくと、広々とした空間がそこにある。配管剥き出しの天井、コンクリート打ちっぱなしの床。ヴィンテージの家具がとても素敵なダイニングバーである。

身体は二十一世紀の表参道にありながら、わたしの精神は1546年のボルドーにあった。昨日に引き続き、今日も「ミシェル 城館の人」(堀田善衞)を読み耽っていた。1546年当時、ミシェルはギュイエンヌ学院の人文学部哲学部に籍を置いていた。世は宗教戦争の真っ只中である。カソリック、プロテスタント、無神論者三つ巴の憎悪の連鎖を描く堀田善衛の筆はいよいよ冴える。「いったい人は如何なる理由によって舌を抜かれたり、火刑に処せられたりするか」。さらには「悪霊」を引用し、「人は自由を追い求めて、ついに警察国家を組織するに至る」と、自身の思いをドストエフスキーの文章に語らせる。改革、革命の名のもとに断行されるありとあらゆる運動はいずれも恐怖による統制なしには維持し得なくなる。十六世紀ヨーロッパに吹き荒れた宗教的な内戦の、その皮肉なまでの切実さと愚かさに、自身が体験した戦争のグロテスクさを重ねているように思える。

Templars on Stake.jpg
Par Anonyme - Bibliothèque Municipale, Besançon, France. Erich Lessing/Art Resource, NY. http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Templars_on_Stake.jpg de:Benutzer:Lysis Eingescannt aus: Louis Crompton, Homosexuality & Civilization. Cambridge, Mass.; London 2003. S. 196., パブリック・ドメイン, Link

それにしても、わたしのミシェルは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。この小説の語り手である「私」は、主人公であるはずのミシェルを置き去りにして、十六世紀のヨーロッパが直面する血と暴力の歴史を語り、後年「ルネサンス」と呼ばれるようになる文化状況を解説し、また、当時の人々の意識の変化を詳細に分析する。丁度、司馬遼太郎が小説の中で唐突に独自の歴史観を語り出すように、堀田善衞は「私」という語り手の存在を借りて、物語の本筋から逸脱した領域で饒舌な問わず語りを始める。それを読みながら、いつしかわたしはミシェルの生涯よりも、“歴史家”堀田善衞の手になる「ルネサンス史」の解釈に夢中になっている。「流血と怒号と涕泣(ていきゅう)である」と彼は書く。ミシェルがギュイエンヌ学院で哲学を学んでいるまさにその頃、ボルドーではジャン・ベルネードという人物が火刑に処せられ、パリ東部のモー村では教会改革派のうち、十四人が燃やされた。わたしは、ジョナサン・J・ムーアなるオーストラリア人の著した「処刑の文化史」という身の毛もよだつ書物の「火あぶりの章」を眉をしかめながらも思い出さないわけにはいかない。あるいは、辻邦生の「春の戴冠」における狂信的な僧侶サヴォナローラの最期を。

処刑の文化史

処刑の文化史

 
春の戴冠〈1〉 (中公文庫)

春の戴冠〈1〉 (中公文庫)

 

 

ミシェルとラテン語

2018年3月27日(火) 晴れ

骨董通りにあるPastanticoのカウンターで「ミシェル 城館の人」(堀田善衞)の続きを読む。窓の外の桜の花を美しいと思える自分がいる。

六歳になったミシェルはボルドーのギュイエンヌ学院に入学した。物心がつくかつかない頃から彼は父ピエールによってラテン語の英才教育を、文字通りの意味で、有無を言わさず施されていた。堀田善衞は、しかし、当時の国際語たるラテン語を母語にして子どもの教育戦略を打ち立てた父ピエールの考えに少なからず異議を申し立てている。

ラテン語はやはり文章語であり、説教用の言葉であった。それは日常の物や事、あるいは身のまわりの事物についてそれに適応する単語があったにしても、直接には結びつきがたい、いわば間接の言葉なのであった。

Yoshie Hotta 01.jpg

Yoshie Hotta:By Unknown  - Japanese magazine "The Mainichi Graphic, 1 September 1954 issue" published by The Mainichi Newspapers Co.,Ltd., Public Domain, Link

人は母語によって世界を把握する。現代の日本人が、言文一致運動以前の書き言葉であった漢語で日常会話をこなさねばならなくなったとしたら、果たして、どういう事態が出来するだろうか。六、七歳の学童であったミシェルは、恐るべき流暢さでラテン語を話すことができたが、フランス語は片言しか理解しなかったという。おそらく遊び仲間と言ってもいいだろう近所の少年たちは、フランス語の方言であるペリゴール方言しか喋れなかった。彼らの間で生じるコミュ二ケーションの滑稽さは推して知るべしである。

とはいえ。堀田善衞は父ピエールの教育方針を非難しているわけではなかった。いや、むしろ、その逆であろう。「精神は事物との距離において運動を続けて行く」と彼は書いているが、事物を言葉に結びつける過程でミシェルは、他の少年たちとは異なり、どうしても「思考」というクッションを挟まざるをえなかった。「書き言葉」「説教用の言葉」「間接の言葉」であるラテン語で世界と接するとはそういうことであった。この骨の折れる経験の積み重ねが、凡庸な少年貴族ミシェルを歴史に残る文章家に変えたと堀田善衞は考えていたのかもしれない。

城館の思索者

2018年3月25日(日) 晴れ

「おわりに」によると、著者の保苅瑞穂は「モンテーニュの書斎」の下準備に数ヶ月をかけたという。「群像」の連載には一年半、単行本の出版まで入れると、この本の執筆には「足かけ三年かかわったことになる」。その間、「群像」編集長の佐藤とし子は体調不良で編集長職を退任、連載終了後、パリの著者の元に訃報が届くという切ないエピソードも生まれている。三年というのはそれほどまでに長い期間である。一冊の本を作るのにかける時間としては、昨今の厳しい出版事情を考えると破格と言ってもいい長さだ。だが、それほどの時間をかけて準備をしなければ書き得ない内容の書物というものが確実に存在するということの証でもある。

パリ・ソルボンヌ大学の前にあるPaul Painleve公園にモンテーニュの銅像がある。組んだ右足のつま先は金色に磨かれていて、それは観光客が彼のつま先を触っていくからなのだが、そもそもは学生が試験前の願掛けにそこを撫でる習慣があったことから来ているという。ご多分に漏れずわたしも、この公園を通りがかった際につるつるぴかぴかの件のつま先に手を置いた記憶がある。

Montaigne-Dumonstier.jpg
Par AnonymeInconnu, Domaine public, Lien

とまれ、穂刈瑞穂のモンテーニュは実に興味深い人物で、十六世紀のフランスに生きた人間とは思えないほどの現代的な価値観の持ち主として描かれている。それはおそらく、保苅瑞穂という、ある日本人の仏文学者が、理想とする人間像の体現者としてモンテーニュを見ていることに起因するのだろう。わたしはそのリベラルで融通無碍でおおらかな人間観に大いに賛同するし、それゆえにこそ、保苅瑞穂が描くモンテーニュの人間的な魅力に心を惹かれる。白眉は「第八章 最後の抱擁」だ。「エセー」第三巻 第五章「ウェルギリウスの詩句について」で描かれるモンテーニュの恋愛観、性愛観を考察した章である。「若い頃のモンテーニュは性に奔放だった」「実際、若いモンテーニュは官能の享楽に全身で浸っていた」と保苅瑞穂は書く。モンテーニュの人間讃歌は、人間の動物的な側面をも内包した自然状態を素直に受け入れることで基礎づけられている。十六世紀のフランスにおいても、寝室の出来事やそれらを表現するあらゆる語彙はタブー視されており、その事情は現代の日本とそれほど大きくは変わらない。不用意に口にすれば周囲にきつく咎められ、悪くすれば牢に繋がれる危険性さえあるのがタブーを巡る恐ろしさであり、面倒臭さである。しかし、自然状態を礼賛し、人間が本来有する自由を擁護するモンテーニュにとって、その根本的な思想に無頓着なままでのタブーの横行は許しがたいものであったに違いない。

保苅瑞穂描くところの魅力的なモンテーニュに後ろ髪を引かれながら、本棚に置いたままだった堀田善衞の「ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代」のページをめくり始めた。解題で菅野昭正が指摘するように、堀田善衞がモンテーニュを主人公とした大長篇小説を書いた理由は「堀田善衞が乱世の小説家」だったからだ。開巻早々、カソリックとプロテスタントとの血腥い内戦で戦々恐々たるヨーロッパの情勢が描かれる。世俗界では、結局は「寄木細工の国々の封建君主」に過ぎない神聖ローマ帝国皇帝カール五世と、フランス王フランソワ一世、イタリアの都市国家に君臨する大貴族たち、当時世界最強の帝国と謳われたオスマン・トルコの覇権争いが絶えなかった。第二次世界大戦を生き延びた堀田善衞にとって、十六世紀フランスの争乱は、二十世紀に勃発した戦争の惨禍を思い出させるに十分なものだった。「戦場での殺戮や掠奪、強姦などが良い思い出になる筈はない」。戦争に一片のロマンも見出すことができない堀田善衞は、戦乱の時代にあって理性を重んじ、一方で、人間の自然状態を愛したモンテーニュに自分を重ねていたのかもしれない。 

モンテーニュの書斎 『エセー』を読む

モンテーニュの書斎 『エセー』を読む

 
ミシェル城館の人〈第1部〉争乱の時代 (集英社文庫)

ミシェル城館の人〈第1部〉争乱の時代 (集英社文庫)

 
ミシェル城館の人〈第2部〉自然・理性・運命 (集英社文庫)

ミシェル城館の人〈第2部〉自然・理性・運命 (集英社文庫)

 
ミシェル城館の人〈第3部〉精神の祝祭 (集英社文庫)

ミシェル城館の人〈第3部〉精神の祝祭 (集英社文庫)