秋の日誌

Autumn Journal

ミシェルとラテン語

2018年3月27日(火) 晴れ

骨董通りにあるPastanticoのカウンターで「ミシェル 城館の人」(堀田善衞)の続きを読む。窓の外の桜の花を美しいと思える自分がいる。

六歳になったミシェルはボルドーのギュイエンヌ学院に入学した。物心がつくかつかない頃から彼は父ピエールによってラテン語の英才教育を、文字通りの意味で、有無を言わさず施されていた。堀田善衞は、しかし、当時の国際語たるラテン語を母語にして子どもの教育戦略を打ち立てた父ピエールの考えに少なからず異議を申し立てている。

ラテン語はやはり文章語であり、説教用の言葉であった。それは日常の物や事、あるいは身のまわりの事物についてそれに適応する単語があったにしても、直接には結びつきがたい、いわば間接の言葉なのであった。

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Yoshie Hotta:By Unknown  - Japanese magazine "The Mainichi Graphic, 1 September 1954 issue" published by The Mainichi Newspapers Co.,Ltd., Public Domain, Link

人は母語によって世界を把握する。現代の日本人が、言文一致運動以前の書き言葉であった漢語で日常会話をこなさねばならなくなったとしたら、果たして、どういう事態が出来するだろうか。六、七歳の学童であったミシェルは、恐るべき流暢さでラテン語を話すことができたが、フランス語は片言しか理解しなかったという。おそらく遊び仲間と言ってもいいだろう近所の少年たちは、フランス語の方言であるペリゴール方言しか喋れなかった。彼らの間で生じるコミュ二ケーションの滑稽さは推して知るべしである。

とはいえ。堀田善衞は父ピエールの教育方針を非難しているわけではなかった。いや、むしろ、その逆であろう。「精神は事物との距離において運動を続けて行く」と彼は書いているが、事物を言葉に結びつける過程でミシェルは、他の少年たちとは異なり、どうしても「思考」というクッションを挟まざるをえなかった。「書き言葉」「説教用の言葉」「間接の言葉」であるラテン語で世界と接するとはそういうことであった。この骨の折れる経験の積み重ねが、凡庸な少年貴族ミシェルを歴史に残る文章家に変えたと堀田善衞は考えていたのかもしれない。