秋の日誌

Autumn Journal

火刑の時代

2018年3月28日(水) 晴れ

焼きたての肉料理を頭に思い浮かべながら骨董通り沿いのYPSILONへ行ったのだが、生憎休みだったので、少しだけ足を伸ばしてIDOLへ行った。幅広の階段を地下に降りていくと、広々とした空間がそこにある。配管剥き出しの天井、コンクリート打ちっぱなしの床。ヴィンテージの家具がとても素敵なダイニングバーである。

身体は二十一世紀の表参道にありながら、わたしの精神は1546年のボルドーにあった。昨日に引き続き、今日も「ミシェル 城館の人」(堀田善衞)を読み耽っていた。1546年当時、ミシェルはギュイエンヌ学院の人文学部哲学部に籍を置いていた。世は宗教戦争の真っ只中である。カソリック、プロテスタント、無神論者三つ巴の憎悪の連鎖を描く堀田善衛の筆はいよいよ冴える。「いったい人は如何なる理由によって舌を抜かれたり、火刑に処せられたりするか」。さらには「悪霊」を引用し、「人は自由を追い求めて、ついに警察国家を組織するに至る」と、自身の思いをドストエフスキーの文章に語らせる。改革、革命の名のもとに断行されるありとあらゆる運動はいずれも恐怖による統制なしには維持し得なくなる。十六世紀ヨーロッパに吹き荒れた宗教的な内戦の、その皮肉なまでの切実さと愚かさに、自身が体験した戦争のグロテスクさを重ねているように思える。

Templars on Stake.jpg
Par Anonyme - Bibliothèque Municipale, Besançon, France. Erich Lessing/Art Resource, NY. http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Templars_on_Stake.jpg de:Benutzer:Lysis Eingescannt aus: Louis Crompton, Homosexuality & Civilization. Cambridge, Mass.; London 2003. S. 196., パブリック・ドメイン, Link

それにしても、わたしのミシェルは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。この小説の語り手である「私」は、主人公であるはずのミシェルを置き去りにして、十六世紀のヨーロッパが直面する血と暴力の歴史を語り、後年「ルネサンス」と呼ばれるようになる文化状況を解説し、また、当時の人々の意識の変化を詳細に分析する。丁度、司馬遼太郎が小説の中で唐突に独自の歴史観を語り出すように、堀田善衞は「私」という語り手の存在を借りて、物語の本筋から逸脱した領域で饒舌な問わず語りを始める。それを読みながら、いつしかわたしはミシェルの生涯よりも、“歴史家”堀田善衞の手になる「ルネサンス史」の解釈に夢中になっている。「流血と怒号と涕泣(ていきゅう)である」と彼は書く。ミシェルがギュイエンヌ学院で哲学を学んでいるまさにその頃、ボルドーではジャン・ベルネードという人物が火刑に処せられ、パリ東部のモー村では教会改革派のうち、十四人が燃やされた。わたしは、ジョナサン・J・ムーアなるオーストラリア人の著した「処刑の文化史」という身の毛もよだつ書物の「火あぶりの章」を眉をしかめながらも思い出さないわけにはいかない。あるいは、辻邦生の「春の戴冠」における狂信的な僧侶サヴォナローラの最期を。

処刑の文化史

処刑の文化史

 
春の戴冠〈1〉 (中公文庫)

春の戴冠〈1〉 (中公文庫)