秋の日誌

Autumn Journal

革命の年

2018年4月3日(火) 晴れ

骨董通りにあるIDOLのシャンデリアは優しく柔らかな光で空間を満たす。しかし、わたしが今いる十六世紀のフランスは相当に血腥く、昏い。他国(ブラバント公国)の画家ではあるが、ミシェル・ド・モンテーニュと同時代のヨーロッパを生きたピーテル・ブリューゲルの不吉な絵画「死の勝利」の薄気味悪い情景が脳裏をよぎる。

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By ピーテル・ブリューゲル - Museo del Prado, パブリック・ドメイン, Link

「1560年は嵐のような年であった」と堀田善衞は「ミシェル 城館の人」で書く。プロテスタント側の貴族や軍人、商人たちが画策したギュイーズ公暗殺の謀議は完全に失敗した。城門や(アンボアーズの)町中には絞首刑に処せられたプロテスタントたちの屍を吊るした柱がまるで「林のように立てられた」。フランスの宗教戦争はその規模が拡大するに従って、敵対する政治勢力間の権力闘争に発展する。さらには、当然のことだが、経済問題にまで飛び火する。王国の財政はほとんど破綻状態にあった。スペインを経由してアメリカ大陸から流れ込む金銀が貨幣価値の大暴落を引き起こしていたのだ。皮肉なことである。“新大陸で発見された宝物”が旧弊な貨幣体制や経済構造をその根本から破壊する引き金(のひとつ)となっていた。財政破綻の対処は王国にとっては喫緊の課題である。教会および僧院は、プロテスタント諸都市の要求に押し切られる形で、所有する莫大な財産の売却を余儀なくされた。堀田善衞はカソリックを追い込んだプロテスタントの動きをフランス大革命における第三身分のそれと同等レベルであると考える。フランスにとって1560年という年はまさに革命の年であった。