秋の日誌

Autumn Journal

サン・バルテルミーの大虐殺

2018年4月17日(火) 雨

骨董通りに雨が降る。月の半ばを過ぎたというのに、コートが必要なくらい寒い。傘をさして、Pastanticoへ。「ミシェル 城館の人」(堀田善衛)の続きを読む。第二部のタイトルは「自然 理性 運命」。

舞台は1572年8月のパリである。堀田善衛はミシェル・エーケム・ド・モンテーニュにただの一言も言及することなく、王国の母后カトリーヌ・ド・メディシスの策謀を語り、シャルル九世の発狂の過程を綴り、そして、歴史の渦に呑み込まれてゆく人々の悲劇的な運命を淡々と記述していく。それらの文章は誰もが知るあの恐るべき殺戮の季節の到来を予感させるに十分なものだ。

8月24日、日曜日はサン・バルテルミーの祝日だった。

王宮の廻廊は地獄であった。床にも壁にもドアーにも、鮮血はありとある血模様を描き、死骸、傷を負って逃げまどう者、喉を掻き切られた者……。いずれも刀槍によるものであったから、全身の血液が全部流れ出るまで、流血は止まなかった。

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By François Dubois - [1], パブリック・ドメイン, Link

パリで勃発したカソリックとプロテスタントの殺し合いは29日まで続いた。狂気の連鎖は地方にも飛び火する。リヨンでは約千人が死んだ。モーでは200人、オルレアンでは500人、トゥルーズでは200人、ボルドオでは344人が殺された。最終的な犠牲者数は数千人とも数万人とも推定される。まさに虐殺の季節であった。

事件の描写が一段落したところで、堀田善衛はようやくミシェルに触れる。

サン・バルテルミーの大虐殺について、ミシェルは一言半句も書きはしなかった。

そう。ミシェルは王国を震撼させたこの大事件について、いかなる文章も残していない。そんなミシェルの思惑を堀田善衛はできる限り理解しようと務める。ミシェルは敬虔なカソリックである。若くして公職を辞し、ボルドオの城館に隠棲していたとはいえ、依然として王国の中枢に多くの知己を持つ帯剣貴族でもあった。カトリーヌ・ド・メディシスが企てた陰謀と、想像を絶するその凄まじい結果に正面から異を唱えることはできなかったであろう。ミシェルはまた、自身の書き物の中にキリスト教論考のようなものもほとんど残していなかった。

要するに、古代ギリシャ、古代ローマの文学と哲学が圧倒的な深さと重さをもって、彼の内面に存していたのである。

十六世紀のヨーロッパにおいて、政治と宗教は権力装置という意味で、同じものであった。思索家でありながら、実際家でもあったミシェルにとって政治と宗教は共に、ある一定の距離を置いて付き合うべき(けっして突き放すことはできない)、飼い慣らし難い野獣のような存在であったと考えられる。ただ、それ以前の問題として、堀田善衞が想像するように、ミシェルの視座はすでに同時代の政治・宗教的な闘争が生み出す状況の観察を遥かに超えて、人間の振る舞いを広く俯瞰し、深く分析するものであった。カソリックの世界観を信奉してはいたが、彼のような立場にある人物としてはおそらくかなり稀なことに、異教的な価値観によって、キリスト教世界で生じる深刻な愚行を眺めることができたのであった。