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宮崎駿と日本映画史110年

1941 S16 [0歳]1月5日、東京都文京区に生まれる。男ばかり4人兄弟の次男。
1941 S16 国産の生フィルムは軍需品と見なされ、民間使用に制限が加えられる。
1946 S21 [5歳]一家をあげて栃木県宇都宮市および鹿沼市疎開する。
1946 S21 GHQの下部組織CIE(民間情報教育局)により、仇討ち、切腹等、時代劇に含まれる描写が残忍非道な暴力として禁止される。
1951 S26 木下恵介は1950年代を通じてもっとも国民に信頼された監督だった。日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』を発表。
1952 S27 [11歳]杉並区立大宮小学校に編入。福島鉄次の『沙漠の魔王』の熱烈なファンだった。
1952 S27 日本映画が3年連続(1952〜1954年)、ヴェネツィア映画祭で受賞する(『羅生門』『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』)。
1953 S28 小津安二郎が『東京物語』で告げたのは、家族制度のゆるやかな解体にほかならない。
1953 S28 [12歳]杉並区立大宮中学校に入学。お手伝いさんと一緒に『めし』『たそがれ酒場』等を観る。
1953 S28 日本でテレビ放映開始。
1953 S28 松竹が『きみの名は』を制作。戦後の混乱期に日本中を転々としながらどこまでも行き違いを重ねる男女の物語が大人気に。
1955 S30 成瀬巳喜男は1950年代に林芙美子を原作として、きわめて繊細で円熟した調子のフィルムを撮った。『浮雲』を発表。
1956 S31 石原慎太郎の『太陽の季節』を古川卓巳が映画化。日活の快進撃が始まる。
1956 S31 『赤線地帯』が溝口健二の遺作となる。
1958 S33 [17歳]都立豊多摩高校3年のとき、『白蛇伝』を観て、アニメーションに興味を持つ。
1958 S33 東映動画白蛇伝』公開。戦後長編アニメの嚆矢。
1959 S34 [18歳]学習院大学政治経済学部に入学し、児童文学研究会に入る。
1959 S34 皇太子の結婚をきっかけにテレビが一般家庭に浸透し始める。
1959 S34 岡本喜八が『独立愚連隊』を撮る。日本軍と中国軍の両方をからかう軽妙なナンセンス喜劇。
1959 S34 大島渚を筆頭とする映画監督たちの一連の作品群を称して、ジャーナリズムは「松竹ヌーベルバーグ」と命名した。
1960 S35 新藤兼人が『裸の島』を完成。個人の欲望を社会的文脈のなかで、階級的産物として観察することに情熱を傾けた。
1961 S36 黒澤明が殺陣場面に従来にない誇張された手法を用いた『用心棒』を撮る。世界中の武術フィルムに大きな衝撃を与える。
1962 S37 [21歳]大学で唯一面白かった講義は久野収の授業。この頃、堀田善衛などを読み、『尼僧ヨアンナ』を観る。
1962 S37 小林旭の日活無国籍アクション『渡り鳥』シリーズ終了。
1962 S37 日本アート・シアター・ギルド(ATG)結成。製作費は大手の5分の1の1000万円。実験精神に満ちた若い監督たちに製作を依頼し始める。
1963 S38 『人生劇場・飛車角』(沢島忠)で鶴田浩二高倉健共演。任侠映画ブームの始まり。
1963 S38 『にっぽん昆虫記』で今村昌平は、生命力の起源としての女性の大地性を描く。
1963 S38 [22歳]東映動画に入社。はじめて動画担当として参加した作品は『わんわん忠臣蔵』。『狼少年ケン』の動画も担当。
1963 S38 黒澤明が『天国と地獄』で、日本には珍しく、階級闘争の構図を描写する。
1964 S39 [23歳]劇場用作品『ガリバーの宇宙旅行』の動画を担当。組合の書記長を務める。副委員長は高畑勲
1964 S39 松竹が退屈なメロドラマと庶民喜劇の世界に戻る。『拝啓天皇陛下様』(野村芳太郎)、『馬鹿まるだし』(山田洋次)などを製作。
1965 S40 [24歳]劇場用長編『太陽の王子ホルス』の準備に自主参加。作画は大塚康生など。10月、同僚の大田朱美と結婚。
1965 S40 黒澤明が『赤ひげ』でチャンバラのない時代劇という新しいジャンルを提案する。
1966 S41 [25歳]『太陽の王子ホルス』の場面設計、原画を担当。制作遅延のため、10月に中断。
1966 S41 『白昼の通り魔』で大島渚は2000に近い細かいショットの集積を通して、性と暴力、狂気の交錯する瞬間を描いた。
1967 S42 [26歳]『太陽の王子ホルス』制作再開。長男誕生。54年製シトロエン2CV購入。
1967 S42 「ピンク映画の帝王」と呼ばれた若松孝二は『犯された白衣』などで暴力と性、反権力、母性回帰願望に満ちたフィルムを製作した。
1968 S43 [27歳]7月に『太陽の王子ホルスの大冒険』として公開される。その後、『長靴をはいた猫』の原画作業に入る。
1968 S43 『神々の深き欲望』で今村昌平は、世界創世神話に登場する兄妹の近親相姦の物語を当時の日本の状況に重ね合わせた。
1968 S43 東大安田講堂事件。影響力を持ち始めた新左翼運動のなかで学生たちは東映任侠映画に酔いしれた。
1969 S44 渥美清主演『男はつらいよ』(山田洋次)、公開。
1969 S44 [28歳]4月、次男誕生。『少年少女新聞』に『沙漠の民』を連載する。ペンネームは秋津三郎。
1969 S44 篠田正浩がATGで『心中天網島』を製作。文字で埋め尽くされた日本家屋の美術が観るものに強烈な印象を残す。
1970 S45 [29歳]劇場長編映画どうぶつ宝島』の準備に参加。
1970 S45 藤田敏八が『野良猫ロック』を発表。巨大な権力に立ち向かっていくアウトローの若者たちを描く。
1971 S46 [30歳]東映動画を退社。8月、スウェーデンへ。城塞都市ヴィスビーの佇まいに衝撃を受ける。
1971 S46 1971年に日本で製作された映画は367本。そのうち、ピンク映画が159本を占める。日活がロマンポルノ路線を断行。
1972 S47 [31歳]劇場用中編『パンダコパンダ』に参加。
1972 S47 『さそり』(伊藤俊也)シリーズ、スタート。復讐心と憎悪に満ちた女囚の視点で国家と権力を描く。
1973 S48 [32歳]6月、高畑勲らと共にズイヨー映像へ移籍。『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。
1973 S48 仁義なき戦い』シリーズで深作欣二は、伝統的な様式世界へのノスタルジアとメロドラマ的感傷をことごとく否定する。
1974 S49 [33歳]『アルプスの少女ハイジ』で全52話の全カットをレイアウトした。実写でいえばカメラマンの役割。
1974 S49 東宝山口百恵を主演に迎えた文芸アイドル映画(『伊豆の踊り子』『絶唱』『エデンの海』)の製作を開始。
1974 S49 寺山修司が『田園に死す』を通じて、アングラ文化を生きる日本の若者たちを擁護。
1975 S50 [34歳]7月、日本アニメーションに移籍。『母をたずねて三千里』の準備に入る。
1975 S50 高林陽一がATGで『本陣殺人事件』『金閣寺』を撮る。
1976 S51 [35歳]『母をたずねて三千里』の場面設定、レイアウトを担当。
1976 S51 スタジオシステムが解体し、角川書店が映画製作に参入。第1弾は『犬神家の一族』(市川崑)。
1977 S52 [37歳]6月、『未来少年コナン』の準備に入る。宮崎駿初の演出作品。
1977 S52 大林宣彦が『HOUSE ハウス』を皮切りに35ミリ劇映画の世界で旺盛な創作活動を開始。創作の根底にあったのは少年時代への尽きせぬノスタルジア
1977 S52 宇宙戦艦ヤマト』(舛田利雄)が大ブームを巻き起こすが、アニメというジャンル自体はまだ年少者を相手にしたものの域を出なかった。
1978 S53 [38歳]NHK初の30分アニメシリーズ『未来少年コナン』放映。
1978 S53 東映深作欣二に『赤穂城断絶』『柳生一族の陰謀』などを撮らせるが、お家芸である時代劇の活気を回復させることはできなかった。
1978 S53 曽根崎心中』などで増村保造が描く女性は、強烈な自我と生への欲望を持ち、そのためには破滅さえ厭わない。
1979 S54 [39歳]12月、『ルパン三世 カリオストロの城』完成。興行的には失敗したが、一部、ファンの根強い支持を得た。
1979 S54 4月7日に「機動戦士ガンダム」が名古屋テレビほかで放映開始。全43話。
1980 S55 [40歳]『ルパン三世(新)』144話と155話の脚本と演出を担当。ペンネームは照樹務。
1980 S55 長らく沈黙していた鈴木清順が『ツィゴイネルワイゼン』を皮切りに『陽炎座』『夢二』などの大正3部作を発表。
1981 S56 [41歳]『アニメージュ』8月号に宮崎駿特集号が組まれる。徳間書店との付き合いがはじまる。
1981 S56 さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』(りんたろう)、公開。
1982 S57 [42歳]『アニメージュ』2月号から『風の谷のナウシカ』の連載開始。『名探偵ホームズ』の演出に入る。
1982 S57 大林宣彦は、「戻り来ぬ時間への追憶」という主題を深化させ、『転校生』『時をかける少女』を撮る。
1982 S57 機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』(富野由悠季)、公開。
1983 S58 [43歳]『風の谷のナウシカ』の映画化が始動。マンガ版ナウシカの連載は6月号で中断となる。
1983 S58 家族ゲーム』で森田芳光は、日本人の日常生活が隠蔽している死と無秩序への衝動を巧みに映像化した。
1984 S59 [44歳]3月に『風の谷のナウシカ』公開。個人事務所「二馬力」設置。
1984 S59 伊丹十三が『お葬式』で監督デビュー。
1984 S59 風の谷のナウシカ』で宮崎駿は、もはや文学と映画が喪失して久しいユートピア感覚をスクリーンに蘇らせた。
1984 S59 うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守)、公開。
1985 S60 [45歳]『天空の城ラピュタ』の準備に入る。吉祥寺にスタジオジブリ設立。イギリス・ウェールズ地方をロケハンする。
1985 S60 黒澤明が海外資本で『乱』を製作。
1986 S61 [46歳]8月に『天空の城ラピュタ』公開。『アニメージュ』12月号からナウシカ再開。
1986 S61 岡本喜八大映で『ジャズ大名』を製作。
1987 S62 [47歳]『となりのトトロ』の準備に入る。スタジオジブリ制作。
1987 S62 オネアミスの翼 王立宇宙軍』(山賀博之)、公開。
1988 S63 [48歳]4月に『となりのトトロ』公開。昭和最後の邦画ベスト1。
1988 S63 市川準小津安二郎木下恵介といった「古き良き日本映画」への郷愁を心に秘めながら『会社物語』を撮った。
1989 H01 [49歳]7月に『魔女の宅急便』公開。主題歌は松任谷由実の「ルージュの伝言」。
1989 H01 松田優作、39歳で夭折。1980年代の10年間を通して最も重要な映画俳優だった。
1989 H01 機動警察パトレイバー』二部作で押井守は一貫して戦後日本社会を否定する人物を主人公とした。
1989 H01 極めて独自の文体を持ったアクション映画監督として北野武がデビュー。
1990 H02 [50歳]『アニメージュ』4月号からマンガ版ナウシカ再開。
1990 H02 アルゴ・プロジェクト設立、インディーズ専門の映画館開館にこぎつける。
1991 H03 [51歳]『紅の豚』の準備に入る。『おもひでぽろぽろ』のプロデュースを担当する。
1991 H03 歌舞伎役者 坂東玉三郎泉鏡花の『外科室』を映画化。
1992 H04 [52歳]7月『紅の豚』公開。日本テレビのスポット「そらいろのたね」も監督。
1992 H04 ディレクターズ・カンパニー解散。1982年に黒沢清相米慎二らが結成していた。台頭しつつあったインディーズ映画の将来に一抹の不安を投げかける。
1993 H05 [53歳]『アニメージュ』3月号からマンガ版ナウシカ再開。
1993 H05 押井守は『機動警察パトレイバー2 the Movie』で独自の都市論、国家論を展開した。
1994 H06 [54歳]『アニメージュ』3月号でマンガ版ナウシカが最終回を迎える。
1994 H06 崔洋一は『月はどっちに出ている』を通じて、在日韓国・朝鮮人の置かれている状況を考えた。
1995 H07 岩井俊二がテレビから映画に活動の舞台を移す。『Love Letter』で日本人の抒情的な側面を強調した。
1995 H07 [55歳]7月『耳をすませば』の脚本、絵コンテ、プロデュースを担当する。
1995 H07 押井守士郎正宗の『攻殻機動隊』をアニメーション映画化。テクノロジーの発達が導く終末論的な世界を描く。
1996 H08 [56歳]『もののけ姫』制作中。
1996 H08 1996年に日本で製作された映画は289本。年間観客数は1億1958万人。
1997 H09 [57歳]『もののけ姫』公開。『E.T.』の興行記録を15年ぶりに塗り替える。
1997 H09 プロデューサー奥山和由が松竹を追放される。この年、渥美清逝去。『男はつらいよ』の撮影が不可能になる。
1997 H09 もののけ姫』が記録的なヒット。
1997 H09 黒沢清は『CURE キュア』『カリスマ』などで、恐怖映画や探偵映画といったジャンルそのものを批評的に再検討する作風を模索した。
1998 H10 1998年の日本の映画館の数は1988館。シネマコンプレックスが定着し始める。年間観客数は1億5000万人を超える。
1999 H11 ワンダフルライフ』で是枝裕和は日本人の死生観に新しい視点を投げ掛けた。
2001 H13 [61歳]『千と千尋の神隠し』公開。『もののけ姫』の日本の興行記録を塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円を達成。
2001 H13 中田秀夫が『リング』に続き、『仄暗い水の底から』を発表。Jホラーブームが続く。
2002 H14 美しい夏キリシマ』に始まる3部作で黒木和雄は敗戦直前の日本人の清楚にして倹しい日常を活写した。
2004 H16 [64歳]細田守監督に代わり、『ハウルの動く城』を監督。
2004 H16 是枝裕和が『誰も知らない』で家族解体後の子供たちの生存術を描く。
2005 H17 かもめ食堂』の荻上直子や『三年身籠る』の唯野未歩子らが作り上げる世界は、さりげない親密さに裏打ちされている。
2006 H18 [66歳]アカデミー賞の選考委員に選ばれたが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退。
2006 H18 フラガール』で李相日(リサンイル)は、廃坑となった福島の炭坑を舞台にハワイのフラダンスを通して町おこしをする人々を描く。
2006 H18 西川美和は『ゆれる』で、卑小な悪と虚栄、怯懦を含め人間的なるもののいっさいを肯定する。
2008 H20 [68歳]7月に『崖の上のポニョ』が公開。観客動員数が『ハウル』より少なかったことにショックを受ける。
2008 H20 園子温は『愛のむきだし』で、卑小な欲望にもつれゆく人間関係を嬉々として描く。
2011 H23 「ぴあ」休刊。観客はDVDを自宅の狭小なモニター画面で観ることに慣れていった。
2012 H24 [72歳]文化功労者に選ばれる。
2013 H25 [73歳]『風立ちぬ』公開。9月1日、引退を発表する。
2014 H26 [74歳]8月、スタジオジブリ、制作部門の休止を発表。
2017 H29 [77歳]長編映画制作に復帰すると発表。スタジオジブリ制作部門、活動再開。
2023 R05 [83歳]『君たちはどう生きるか』公開予定。

日本映画史110年 (集英社新書)

日本映画史110年 (集英社新書)

 
出発点―1979~1996

出発点―1979~1996

  • 作者:駿, 宮崎
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本
 

1972

1972年は現代の国際秩序形成の端緒となった年と言える。リチャード・ニクソン米大統領の電撃訪中が世界に与えた影響は、米ソ二極対立の時代の終焉と、ソ連、欧州、日本、中国、アメリカの五大勢力均衡時代の始まりを予告していた。

特に日本の田中角栄政権に与えた影響は甚大で、同年9月の中国との国交正常化に繋がった。日本はこの後、バブル経済社会の構築に向けて、右肩上がりの成長幻想を基盤にした政治的、経済的、文化的取り組みを推進していくことになる。

他方、ニクソン政権下で胎動しつつあった情報技術の進化は、21世紀の高度情報化社会の実現を準備することになる。インテルはこの年、8ビットCPU「8008」を開発した。

双子の精神の暗黒

他人の日記を読むのは愉しい。知り合いの日記であればなおさらだ。僕が考える「彼ら」と、「彼ら」が考える僕の間には、お互いに予想もできない溝がある。日記はそんな溝の存在を教えてくれる。奥深く、底知れない巨大な暗黒を覗き込みたくて、今日も僕は他人の日記を読む。

悪童日記』という小説に読み耽る時、僕は、「主人公である双子の少年がノートに書いた文章」に目を通すという体裁で小説に接する。この「ノート=小説」という枠組みは『悪童日記』においてとても有効に機能する。読者である僕はノートの書き手である双子の視点で、第二次世界大戦末期にハンガリーの村で発生した数々の陰惨な事件を「目撃」する。双子が採用した「いっさいの説明や感情移入や修飾を省いた『白い文体』」(堀茂樹)は、戦時下の極限状況を生き抜く彼らのドライな世界認識を表現しているように思える。
しかし、この枠組みは、第二作の『ふたりの証拠』の登場によって、小説世界の重層性を構築するひとつの装置に過ぎないことが明らかとなる。『悪童日記』の世界そのものだったノートは『ふたりの証拠』において小道具のひとつとなり、ノートの書き手はリュカとクラウスという名前で呼ばれる少年たちであることが示される。

つまり、「ノート=小説」の枠組みに外部が存在することで『悪童日記』の世界は、あくまで双子が書いた、稚拙だが丹精な文章の中にしか存在しえないことが暴露される。その世界は、双子の手元にあった聖書の醜悪なパロディである。

双子はおそらく、解釈の余地のない表現で事実を記述しようと努めたのだろう。だが、それらの文章から読み取れる真実は、あらかじめ双子の視点で切り取られていたのだ。双子が語らない真実は『ふたりの証拠』で双子以外の語り手によって徐々に明らかにされる。僕はそこに双子の精神の暗黒を垣間見る。

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 

 

「悪童日記」に習う文章の書き方

下書き用の紙と鉛筆、「大きなノート」を用意する。知らない言葉の意味を調べるための国語辞典も必要だ。道具が揃ったら、台所のテーブルに向かって書き始める。もし、きみが双子なら、もうひとりの兄弟(姉妹)と一緒に日記を書くことを勧める。お互いの文章の校正、校閲を行うことができる。ひとりしかいないのなら、きみが「もうひとりのきみ」を演じることになる。

ひとつの主題で作文をするための持ち時間は2時間。使える用紙は2枚だ。2時間後、「お互い」の用紙を交換し、国語辞典を参照しながら「相手」の作文を添削する。漢字の書き間違いや使い方の誤りを正し、ページの余白に「良」か「不可」と記す。「良」の作文は「大きなノート」に清書する。「不可」はゴミ箱に捨てる。

作文の内容は真実でなければならない。記述するのはあるがままの事物、きみが見たこと、聞いたこと、実行したことに限られる。それが作文のルールだ。たとえば、「戦争は残酷だ」と書くことは「不可」となる。きみが感じる戦争の印象に他の人は同意できないかもしれない。その代わり「ソ連軍の将校は『戦争は残酷だ』と言った」と書くのは許されている。

「感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい」とハンガリーの難民作家アゴタ・クリストフは「悪童日記」で書く。

最後に。余程のことがない限り、きみは現在形で文章を書かなければならない。現在形は記述される状況に、まるで「その場にいるかのような」臨場感をもたらすことができる。「事実の忠実な描写」と組み合わせることで、そうしないで書くよりも、文章に生々しい迫力を付与することができる。

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

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頭上から垂れ下がる巨大な舌

パリ9区はセーヌ川の右岸、ルーブル美術館の北に位置する区画である。翅を広げた蝶のような形の、中心から少しだけ左寄りの場所にギュスターヴ・モロー美術館はある。

外観は、何の変哲もない住宅のそれなのだ。しかし、ギャラリーフロアに足を踏み入れた途端「ここは本当に人が住んでいた建物なのか」という「驚き寄りの嬉しさ」が僕の身体の中で瞬間沸騰した。天井の高さは八メートルくらい。バスケットコートが余裕で一個分は入りそうな床面積。臙脂(えんじ)色の四方の壁にはかつての家主が描いた幻想的なタブローがびっしりと隙間なく掛かっている。上階へ通じる螺旋階段が、天井が捲(めく)れたような意匠でデザインされている。まるで頭上から垂れ下がる巨大な舌だ。 

なんという邸宅。ギュスターヴ・モローは生前、ここで生活をしていたという。彼の死後、1903年に美術館として開館した。邸内の絢爛豪華さに拍車をかけているのは、もちろん、ギュスターヴ・モローが残した多くの絵画である。 

「出現」という作品がある。バプテスマのヨハネの切断された頭部が光をまとって空中に浮かんでいる。ヨハネは虚ろな目でサロメを見つめ、サロメは恐れと怒りが綯い交ぜになった視線でヨハネを睨(ね)めつける。殺し、殺された者のこの世ならぬ邂逅の場面である。赤銅色の柱と朱殷(しゅあん)色の絨毯が血の色を連想させる。新約聖書ギリシャ神話のエピソードに材を採った彼の作品の中でも、この「出現」の禍々しさは出色だ。 

The Apparition, Gustave Moreau 1876.jpg
『出現』 (1876, en:L'Apparition), Gustave Moreau, パブリック・ドメイン, リンク

血腥い神話的な世界観に彩られた建物を抜け出し、現実世界の地下鉄に向かって凸凹の石畳を歩く。そこには、パリ9区のさっぱりとした明るい雰囲気の住宅街が広がっている。